INTERVIEW「音楽家の対談」 Vol.3

藤田崇文が世界的に活躍する音楽家に、そして仲間達にインタビューした語らいを掲載していきます。

第三回 木村かをりさん[Kaori Kimura] (ピアニスト)

木村かをりさんインタビュー

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日本を代表し、世界的に活躍するピアニスト・木村かをりさんは、現代音楽曲演奏のスペシャリストとして高い評価を得、長年にわたる邦人作品の積極的な演奏活動により数々の賞を受賞。メシアンとの出会いが自分と現代音楽との出発点、という。

夫・岩城宏之さんが妻・かをりさんの為にひそかにコンサートを企画している中、惜しまれつつこの世を去ってから、1年後「遺言」とも言えるリサイタルを3夜(2007年6/14、10/25、2008年2/4)にわたり開催。最終コンサートは紀尾井ホールで“メシアン生誕100年記念”を終えた。

今もなお、第一人者として精力的に演奏活動をつづける、木村かをりさんの素顔に迫ってみました。

2008.Mar.藤田崇文

対談

藤田:3夜開催された「木村かをりとアンサンブルの世界’07」誠にお疲れさまでした。そしてご盛会おめでとうございました。その直後、伊福部昭音楽祭へも出演してくださり、ありがとうございました。 かをりさんは、とりわけ現代音楽の分野でも第一人者でいらっしゃいますが、音楽との最初の出会いなどをお聞かせくださいますか。

木村:私は小さい頃からピアノを習ってきて今日に至っていますが、実は子供の頃はピアノが嫌いでした。母親が厳しかったこともあり、なるべく逆らわないようにして(笑)、本当に恥ずかしい話ですが、ただピアノを続けることだけだったのです。 私が4歳の時、最初にピアノを習うことになる外山国彦先生(指揮者・外山雄三氏の父)は日本最初の男性歌手でもいらっしゃいましたが、4歳の子供でしたから、簡単なリズムやメロディーのお稽古、そして先生が弾いた単音を何の音かを答える聴音を叩き込まれ、ここで絶対音感を身につけることになります。絶対音感があれば世間では「偉い」と誤解している方もいらっしゃいますが、これは誰にでも身につくことで極端に言えばサルにだって仕込めばできると思います(笑)。

2年位しますと、外山先生は「僕はこれ以上教えられない」とおっしゃり、音楽評論家の属啓成(さつか・けいさい)先生の元で習う事になります。相変わらず他の子は遊んでいるのに、自分は遊べない。という気持ちが強かったのですが、属先生のお宅に行くのは楽しみでした。

藤田:小さい頃、ピアノが嫌いだったのは、意外でした(笑)。その後、東京芸大付属高校へも進学されていますが、その頃には好きになったのですか?

木村:まだまだ先の話になります。東京芸大付属高校は、小学生から習い始めた安川加寿子先生の勧めで進学したのですが、こちらも逆らうことなく(笑)受験し、めでたく合格いたしました。その後には東京芸術大学にも進学し、多くの先生達に恵まれた音楽環境の中で育ちました。一方、主人(岩城宏之)は卓上木琴の白鍵しかない楽器で音楽を模索していった少年期とは、まるで違いました。当時の私は、バッハやモーツァルトは好きでしたが、ロマン派はあまり好きになれませんでした。自分がこれだと思うような音楽と巡りあっていなかったのです。

藤田:岩城さんは東京芸大受験の時は打楽器科を受験し、小太鼓の試験がある事もよくわかっていなかったようで、試験当日同じ受験生の親切な方に左手のバチの持ち方をその場で教えてもらい合格されましたが、その教えた親切な方は1年入学を見送ることになる面白い逸話も残っていますよね。 そのピアノ嫌いが続く中で、かをりさんはパリ国立音楽院でも学ばれていますね。

木村:父は新聞記者だったのですがヨーロッパ赴任により家族でフランスに行き、パリ国立音楽院ではピアノとは別に室内楽をジャック・フェブリエに師事することになりますが、結果的に彼との出会いがピアノの楽しさを開眼したことになります。音色の重要性、響き、その音の出し方の違いについて、徹底的に叩き込まれました。どうやればどういう音が出せるとかなど、1小節に2時間というレッスンもありました。最初の頃は私が何曲用意していっても「たったのこれだけ?」と思いましたが、全部を弾くのが大事ではなく、短いフレーズでも一つ一つ音を大事にすること、自分の納得いく音が出せれば、あとは結局同じだということがわかりました。

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藤田:1967年にはフランスでメシアン・コンクールに出場されていますね。

木村:このメシアン・コンクールで第2位に入賞しました。これが現代音楽との出会いにつながります。今迄、小さい頃からずっとピアノ嫌いが続いてきた訳ですが、フェブリエに出会い、音楽の奥深さ、楽しさを知りました。メシアンの独創的で美しい彼の音楽は、私をピアノ好きに決定づけたといえるでしょう。メシアンは抽象的でイメージを大切にする方でした。

藤田:世間では「現代音楽」と聞いただけで「何か特別なもの」と誤解されがちですが、今生きている人達が、今の音楽を聞き、そして、その曲を紹介していくことや、そういうコンサート等をプロデュースしていくことも大事だと思っているんです。 日本の伝統芸能は伝承方法等によって文化が継承されてきましたが、一方、欧州は支配や統一を巡る中、9世紀頃から記号化することで「楽譜」という存在に発展していった背景があると思うのですが、現代音楽の場合は直に作曲家から、記号化した楽譜と、楽譜に書ききれない表現を演奏家に口伝えすることも可能ですから両面が備わっているかもしれませんね。

木村:現代音楽を演奏する楽しさや奥深さは、そういう所にもありますし、新曲を演奏することは私自身もワクワクするんです。私は誰もが音にしたことがない曲を作曲家と一緒になって作っていく作業が本当に好きですし、それが性にあっているんです。

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藤田:岩城宏之さんも現代音楽の委嘱や初演・再演の指揮者として日本の音楽界に新しい風を吹き込み、音楽遺産を沢山残されましたね。 執筆されたエッセイ本やレコーディングされたCDを沢山頂き、我が家の家宝になっています。岩城さんの思い出は尽きないのですが、その中で面白い話があります。 名古屋でコンクールの審査員をお願いした時、即快諾してくれたのですが、30分位してから「わかっていると思うけど、グリーン車しか乗らないからね!」と慌てて電話がありました。まさか藤田の事だから青春18切符でも手配すると思ったんですかね。これは大爆笑でした! コンクール後は寿司屋に皆で行き、店の酒を飲み干す程ワイワイ大騒ぎして楽しかったです。

話を戻しますが、岩城さんは日本の作曲家にも次々と新曲を依頼され、新しい道を開拓し、多方面にわたりプロデュースも展開してきましたね。「音楽バカになってはいけない」と常に言っていましたが、弛み無く努力され「木琴少年から世界的指揮者へ」八面六臂の活躍と、前進する勢の精神は、本当に今でも多くの人達の活力源になっていると思うんです。邦人作品の委嘱、世界初演数でも右に出る人はいないですよね。

木村:作曲家と共同作業しながら、新しい曲づくり(実際の演奏)をするとしたら、楽譜に書いていないテンポ感なども沢山あると思います。メシアンからも多くのアドバイスを頂き、武満徹さんからも楽譜に書ききれない解釈を多くお聞きしました。このようにして、生きている作曲家から直に話を聞き、その機会を得ながら、演奏していくことは私の生きがいなのです。私の音楽人生は、誰も弾いていない新しい曲を演奏し、それが今では習慣のようになりました。これからも様々な「現代の音楽」今の音楽を演奏し続けていきたいと思います。

藤田:本日は楽しい話をありがとうございました。

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(*この対談は2008年3月25日に行ったものです/東京・赤坂)

木村かをり《Kaori Kimura》 プロフィール

  東京芸術大学に入学後パリ国立音楽院に留学。1965年同音楽院を首席で卒業。 1967年第1回メシアン現代音楽国際コンク-ルで第2位に入賞。メシアン、イヴォンヌ・ロリオ女史に師事。日本国内だけでなく、ヨ-ロッパ、アメリカなどでも活躍し、特にメシアンのスペシャリストとして高い評価を受ける。1976年 Decca より発売のメシアンのレコ-ドに ACC ディスク大賞が贈られる。第8回(1989年度)中島健蔵音楽賞、第8回(1993年)京都音楽賞を受賞。

1999年行った全5回の連続リサイタルが高く評価され、第50回(1999年度)芸術選奨文部大臣賞、及び第9回朝日現代音楽賞受賞。2001年第4回メシアン・フェスティヴァルでリサイタルを行う他、ロン・ティボー国際コンクールの審査委員、2002年オルレアンの20世紀ピアノ音楽国際コンクール審査委員。同年、メシアンのピアノ曲をとりあげた全3回のリサイタルが絶賛される。同年11月紫綬褒章を授与され、第34回(2002年度)サントリー音楽賞を受賞。1996年4月よりくらしき作陽大学で教授として後進の指導に当たっている。

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